インターネット定点観測記

駄文、創作、日記など

世界は終わらないし、大人にもなれなかった話

 村上春樹にまつわる話をふと思い出したので書いてみる。

 村上春樹という作家が特に好きというわけではないけれど、その作品に対しては妙な思い出があったりする。初めて読んだ作品は「海辺のカフカ」で確か小学5年生のころで、確か病室のベッドの上だった。小児喘息が酷い子供だったので、毎年10月から12月にかけて発作が起きて、そのまま病院に1ヶ月ほど入院してしまうことが毎年の恒例。入院生活は、暇で暇でしょうがなくて、しかたなく病院の本棚から拝借して読んだのが、たしかこの本だったと思う。特に読後感はふうんって感じで、いまとなっては物語の細部もよく覚えていない。

 その後は高校2年生のとき。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。これもなぜか病院で読んでいた。でも違ったのは、自分の病気で入院していたわけではなく、その時には末期の癌だった祖母の病室だった。末期癌だって知ったのは、祖母が亡くなってしまった後で、その時はただの慢性的な病気だとしか知らされてなかった。

 祖母は、祖父にあたる人とはずいぶん昔に離縁している。僕は祖父にあたる人とは会ったことがない。小さかった僕と妹の面倒を見るために、隣県の田舎から身一つで僕ら家族が住む街へと越してきた。実家に身を寄せるでもなく、近くの市営アパートに住み、働くのが好きで、年金で暮らせる歳なのにわざわざデパートの惣菜屋さんのパートにすすんで働きに出るほど。昔から優しくて、怒られたことは滅多にない。家庭環境で相当苦労したであろうのに、そんな素振りも一切、見せない気丈で元気な人だった。

 そんな祖母が入院したと聞き、病院へお見舞いに行くと、病気を知らされていない僕から見ても明らかに、衰弱していた。つい最近まで祖母は、病気なんてどこ吹く風で、普通の生活をしていたのに。

 祖母の身体にはたくさんの点滴が繋がれていて、痩せ細り、体を起こすのさえ苦労していた。僕は、そんな姿を見たくなかったのか、それともまたすぐ元気になると思い込んでいたのか。御見舞で病室にいる間、2、3言、言葉を交わして、その後は話すでもなく、祖母のそばでずっと本を読んでいた。

 祖母が入院している病院は、通っている高校から橋を超えたすぐ近くにあって、行こうと思えばすぐに行ける距離だ。それなのに、祖母が入院している間に、御見舞に行ったのは、病室で本を読んだ1回と亡くなるその日の2回だけだった。1回目の御見舞の帰り際に言った言葉はいまでも覚えている。「近いからまた来るよ」って確かにはっきり言った。結局、意識のあった祖母に語りかけた言葉はそれが最後になってしまった。

 祖母が危篤だと連絡が入ったのはそれから一週間くらい後の早朝だった。病室に行ったときには意識も朦朧としていて、誰が御見舞に来たのかすらもよくわかっていない様子だった。ただ、危篤だったものの峠は超えたらしく、いまは落ち着いて安静な状態ということで、祖母の周りには入れ替わり立ち代わり兄妹たちや、家族、孫たちが入ってきては、思い出ばなしを語りかけている。病室から廊下まで、たくさんの親族がいて誰が誰かもよくわからない。テレビや映画しかでしか見たことない機械がたくさん並んでいて、初めて心電図が音を立てているところを間近にみた。

 そんなときでさえ、その姿を横目に見ながら隣のベッドのすみの死角を見つけて、上巻を読み終えて下巻に差し掛かった「ハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいた。読んでいた、というよりは文字を追っていただけだったと思う。初めて遭遇する人の死の間際という現実を直視していたくなくて、自身の、または祖母の置かれている状況を飲み込もうともせず、ずっと本の文字を追っていた。

 結局、祖母はその日の夕方に息を引き取った。

 その日から朝まで、通夜の間中、葬式が終わるまでの間もずっとひたすらに、文字を追っていた。だけども、やっぱり内容は頭に入ってこない。同じページばかりに目をやって、また頭からそのページを読み直す。現実を受け入れられていなかったのか、それとも平静でいられる手段がそれしかなかったのか、淡々と進行する単なる儀式的なものに対する反抗心だったのか、なんでそんな行為をしていたのかは今となってはよく覚えていない。だけど、ずっと大人が羨ましいなという思いをすごく感じていた。お酒を飲んで、泣いて、祖母の思い出ばなしをしている。大人はそうして受け止めて、消化していけばいいんだろうけど、当時の自分にはどうして受け止めていいのか、どうやって悲しんでいいのかがわからなかった。人が死ぬってことがよくわからなかった。泣くでもなく、悲しむでもなく、本を読むという行為に執着して現実から逃避をしていた。結局、その本は最期まで読むことができなかった。

 それから月日が経っても、なぜか本は未読のまま、鞄の内ポケットに入っていた。気が向いたときにパラパラとめくる程度だけで、大事にずっとそのままだった。読み終わってしまうと、祖母が亡くなったってことを受け入れてしまった、という自分が怖かったのかも。祖母のいない日常に慣れてしまった、という事実が寂しくて、自分だけでも何か関わりが欲しかったのかもしれない。

 2年経って、大学に進学しても鞄には、持ち歩きすぎてぼろぼろになったこの本がまだ入ってた。それからしばらく経って、ようやく読み終えることができた。1つの作品をこれだけの長い時間をかけて読んだのは、この本が初めてだし最後だと思う。

 読み終わった後、この本を鞄に入れていく理由がなくなったことに気づいて、すこし寂しくなった。