インターネット定点観測記

駄文、創作、日記など

この5年間のはなし

 この記事は「チラシの裏アドベントカレンダー14日目の記事です。 adventar.org

 最初はこんなゆるっとしたテーマで人集まるのかよ本当に..と主催者ながらに思っていたのですが、蓋を開けてみれば20人超の方々にご参加いただきました。大盛況です。本当に、ありがとうございます。もともと、私は他人のブログを読むのが趣味だったのですが、人様のチラシの裏をこんなにも堪能できることにとても感涙しております。ご参加いただいた方々、改めて感謝いたします。

 さて、本日は1日目、2日目と続いて私の「チラシの裏」なんですけども、チラシの裏なんてそんなに書き溜めておりません。どうしようかなと筆が進まなかったので、自分の過去の日記やブログなどを読み返しておりました。改めて振り返ってみると、この5年くらいの体験がとても乱高下が激しいものだったので、いっちょここで振り返ってまとめてみようかなという気持ちになってきました。どうせチラシの裏ですので、どなたかがご査収していただければそれでよいかなと思った次第でございます。

5年前…

 時を遡ること大学4年生の時。私がどんな学生だったかというと、「大してやりたいこともないし、積極的に働きたくないなぁ」という、典型的な学生でした。その上、自分はそんなに成績もよくもないけど、研究は好きだ!などという根拠のない自身に満ち溢れておりました。若いですね。そうこうしているうちに気づいたら就活も終わっている時期に差し掛かっていたので院に進学することにしました。行き当たりばったりですね。勉強もそこそこで研究もやったこともない学生が、重い腰をあげてようやく真面目に研究を始めたところでうまくいくわけもなく.‥。結果、卒論発表で教授にボロカスに言われました。今思い返せば、このときくらいからおメンの調子がよろしくなかったのではと思います。

 さて、卒業後、研究の辛さとか、教授のパワハラなどもありまして大学院の勉強についていけなくなっていきました。火を見るより明らかとはまさにこのようなことでしょうか。それでは一体どのような状況だったのか。当時の日記を読むと垣間見えます。一部抜粋してみましょう。

早くも院進学したことを後悔してる。こんなこったらもっとちゃんと就活しておけばよかった。理由は幾つかあるんだけど、自分のせいなのと環境のせいが半々くらいかな。それくらい。研究室選び間違えたかなーってのもあるけどそれはまあしょうがない。えらんじゃったもんだし、成績順だし。それはまあいいんだけど、やっぱ自分の適正判断完全にミスった。いつからだろう。「普通に就職するのには向いてない。やっぱ研究とか開発とかのほうが向いてるんだ~」って勝手に思ってた。っつーか思わされてた?ちょっと違うな、思うようにしてた。僕にとってはそれを確信してた。何も考えずに。なんかもうちょっとそれに対して疑問を持つ時間とか合ったと思うんだけど、なんでそこで俺は何も振り返らなかったんだろってくらい後悔してる。今なら確信できるけど、「自分、そういうの向いてない」です。はい。いまさら気づいてしまった。

 めちゃくちゃ暗い日記ですね。後悔してるだの、自分のせいにしているだの、いま思い返せばこのときかなりの抑うつ状態だったのではないかと推測されます。結局、このようなメンタル状態でまともに勉強できるはずもなく、だんだん学校を休みがちになり、その後、院は休学することにしました。

タテマエ

 何も言わずに休学するのもあれだったのでタテマエとして、「公務員試験を受ける」という名目を持って大学を休学することにしました。本気で公務員試験を目指している人、本当にごめんなさい。ニートになってしばらくは、「研究しなくていい!大学に行かなくていい!」という開放感で、大学の友達と朝まで麻雀したり、サークルの縁で謎の自主制作映画を作ったりしてモラトリアムの延長を謳歌するわけですね。まあ活動的だったのも最初のうちだけでしたが。

 ニートをしばらく謳歌したのですが、それもほとぼりが冷めはじめました。徐々に徐々に焦りと不安に襲われるようになります。自分はこのままで本当にいいのか?!将来はどうなるんだ?!公務員は本当にやりたい仕事なのか?!などとやっと自問自答しはじめるわけです。公務員試験の勉強も一応やってはいたのですが、こんなモチベーションでしっかり勉強できるはずもなく。結果、すべて惨敗。そこまできてようやく気づくことになるわけです。自分のやりたいことってなんだろうとか、仕事は何が向いているんだろうとか、好きなこととはとかいう「自我」が芽生え始めたのがこのころだと自覚しています。周りに流され流されをやめて自分の意思を持つことで、スタートラインにようやく立つことができるようになったわけです。

いざ、東京へ

 先に言っておきますが、ここではじめた自己分析・自分の適正などというものはこのあと結局、まったくなんの役にも立ちませんでした。今、こうしてそれなりに普通の環境で働けているのはすべて運だと自分では思っています。まあなぜそう思うかについては後ほど。

 なぜか、この時くらいからスイッチが入ったように活動的になりました。そういう時期だったからなのか、本当にやばいと思い始めたからなのかはわかりませんが。衝動性に突き動かされ、「そうだ東京に行こう」というノリでインターネットを駆使して家賃3万円のシェアハウスを見つけて、東京に住所を移しました。そして、そこで就職活動を始めるという作戦をとることにしたのです。当時の自分のやりたいことはいまの職業とも大学で勉強していたこととも全く違うことで、映像制作関係の仕事に就くことでした。

 そのために、精力的に十数社くらい受けまくったんですが、これももう全落ち。適性がないと言われたり、田舎出身だからだめと言われたりでまあそらそうですよね。よくわからん経験もない人がいきなり来て雇うかっていうの。メンタルもそこそこボコボコになっておりました。こんな日記が残っています。見てみましょう。

既卒2年目○歳職歴無し。いま僕は田舎から東京に出てきて就職活動にきている。お祈りメールは何通もらったか途中から数えなくなった。最終面接から一週間以上連絡のない企業もある。東京に出てきて思ったことがある。何をするにもお金がかかる。移動するにも、歩き疲れて一息つくにも、寝泊まりするのにも。これが資本主義なんだから仕方が無い。街全体が脅迫してくる。金のないやつに生きていく資格なんてないよって。社会全体がプレッシャーを与えてくる。お前に生きてる価値があるのかって。息をするのにも何をするにもお金がかかる。僕が世間知らずの大馬鹿だって気づいた。僕は情けない。街全体が脅迫してくる。お前は生きていく価値がないよって。何も生産しない稼げないやつは必要ないよって。

 もういまにも死にそうな文章が残っています。かなりキテますね…(思い出して辛くなってきた)精力的に活動したあとだからなのか、この時期はこんなナーバスな日記がひたすらつづいておりました。

入った会社の色

 さてそんなこんなで、東京という街に打ちひしがれていたのですが、光明が差し込みます。なんと内定がもらえたわけです。それも自分がやりたかった映像制作系の会社!ただ給料は本当低い。東京でやっていくのにも限界のレベル。だけど憧れの映像制作の業界で働ける!家賃はシェアハウスだからなんとかなる!やったぜという気持ちですべてが報われる気持ちになっていったんですね。その時は‥。

 まあ蓋を開けてみればよくある話らしいのですが、その会社の映像制作部というものは名義だけが存在してて実質社長のワンマンで成り立っている部署でした。当然、私がやる仕事はありません。そして、結局色々な部署をたらい回しにされた挙句、そこではじめてやった仕事がIT系のお仕事だったわけです。こちとら映像制作の仕事をやれると楽しみにしていたのですが!ですが!!普通に騙された形でやりたくもない仕事をやらされるのか‥と思いました。

 思った!!んですけど‥。これ、やってみるとIT系のお仕事、すごく楽しいんですよね。当たり前です、こちとら20代前半にしてすでにインターネット15年選手ですよ。ダイヤルアップやテレホーダイの時代からインターネットはやってました。IPやPortの概念なんて中学生で覚えましたし、LinuxなんてPCの数だけインストールしてるんでそりゃやれることはできるにきまってるじゃないですか!!(無限のイキリが発生する)

 というわけで、このときにはじめて自分の適正がわかりIT系エンジニアとして覚醒することになりました。

 ただ、この部署、薄々感づいている方もいらっしゃると思うのですが激ブラックでした。12時間勤務は当たり前で残業代なし、ほぼ休み無し、夜勤もたまにあるってことでいくら若いだけが取り柄の自分でもみるみるうちににガタがきてしまいます。なぞの胸痛、不眠、不意に訪れる発汗、眠れぬ日々…。病院に行くと体には不調がないみたいだから、とメンタルクリニックを紹介されました。ようやくこの時、はじめてメンタルクリニックを受診することにしたのです。結果、「自律神経失調症」と「うつ病」という診断をもらうことになりました。よかったよかった。

療養&再就職

 その後、病気は療養をし、なんとか寛解するに至ってはいます。そんなこともありましたが、やっぱりITを仕事にしたいという思いがあったので、ITエンジニアを続けています。最初の会社から、何度か転職もした(これについても話すと長い)のですが、この仕事自体はとても好きですし、少しづつですが経験も積めていっています。そしていまはそこそこ待遇もよく、病気に理解のある一般企業に務めることができております。本当によかった。

 いまこうして振り返ってみると、行き当たりばったりすぎて自分自身、ただ運が良かったのだなという思いもあります。第三者がみて参考になるかどうかなんてわかりません。だけど、この経験から得られたことも数多くあって、知見もあります。これはいつか「チラシの裏」でないときにまとめていきたいなあという気持ちです。(これはいつかの宿題としておこう)

 願わくば、私の一例ではあるのですが、こんな話もあるよっという事例がお役に立つことができれば幸いです。  本当に長いけれど、チラシの裏失礼しました